昭和42年12月14日 朝の御理解



 18日にここで仕えられます四神様のお祭り、報徳祭。どういう心掛けでそのお祭りの奉仕は勿論ですが、準備万端の上に心掛けて、おかげ頂いたら良かろうかと、私は思うておりますが、今朝から「丁寧」という言葉使ってますね。丁寧をモットーに、今度のお祭りを奉仕させて頂きたいと。私どうやって四神様の今度のお祭りが、特に丁寧と言う事を頂くだろうかと、こう思うのですけども。
 これはいつも私が申しますように、四神様のお祭りといえば、九州の祭りとさえ言われたお祭りであり、もうそれこそ小倉の初代、桂松平先生がこのお祭りを、それこそ丁寧の限りを尽くされたお祭りであったと言う事を思い出させてもらいましてね。それだとこう思ったんです。現在九州の3つの指にどこでもこの報徳祭というのがございます。ございますけれども、それはもうほとんど来春。
 善導寺の親教会は3月3日が報徳祭でございます。で私は御本部の御ひれいを頂いてと言う事の、わがこちらも同じ事ですけれども、十日に奉仕されましたお祭りを、大体はここは十六というのが、ですけどもいわゆる、親先生の御都合もあられる。それでもうそのお祭りは今度だけではない、この報徳祭だけはどうしても十八日に奉仕させてもらう事に、ま決定致しました訳でございますけれども、やはりあのなんと言うても、丁寧が大変に丁寧が欠けておるという気が致しますね。
 九州の(?)。お祭りをどんなに麗々しゅう仕えましてもです。その精神が丁寧さを欠いておるね。ま是はある教会の事でございますけれども、四神様のお祭りにはま八足でも三宝でももう普通の物、大祭の時には取り替えるけれども、四神様の御大祭にはまあ一級品のお供えをするが、もう四神様の御大祭の時には二級品でよかと言った様な、まあですね。そういうはっきり申しますと、その様な事ではなかろうけれども、ま解り易く言うとそういう感じに、その報徳祭がもういわゆる果てている感じがします。
 九州の祭りは。成り果てていると言うと、大変落ちぶれ果ててと言った様な風に聞こえますけれどもですね。確かに私はそれを感ずるです。それにその丁寧と言う事、一番私は、特に感じましたです。どこの御大祭を見ましてもね。本当に私共ひとつ本気で丁寧の限りを尽くさせて頂いて、なるほどそれはお供えはその、その時その時に集まってくるのでございますからね、そのそれより以上にと言う事は出来ませんけれども、その取り扱い一つにおきましてもです。丁寧を極めたいものね。
 教祖御大祭の時には、この道具使ったけども、四神様の御大祭の時には、もうこの道具でよかろうと言った様な、その事は私はもう許されないね。教祖の神様が天地金乃神様と同根と、言われるほどの御神徳を頂かれたと言うなら、やはり四神様、三代様の御信心をもって、その天地の神と同根という御信心を、完璧な御成就というのは、この御三方の御信心によってだと、私は信じております。ですからどうでもひとつ、丁寧の限りを尽くさせて頂く。そこでなら私共がですね、
 その奉仕させて頂きます前々から、心掛けの上にも丁寧を尽くしていかなければいけませんね。自動車でも丁寧に乗る人と粗末に乗る人と言うたら、もう大変な違いだそうですね。やはり丁寧に使った車は長持ちがいい。けれどもそのろくそに乗る、粗末に乗る車というのは。昨日田主丸の小野先生が、今度自動車を購入された事についてから、お届けがありました。その中に言っておられますがね。もうその同じ例えば年代の車が、同じ年数同じキロ数走っておると言うてもです。
 丁寧に使ったのと不丁寧に使ったのとは、大変な違いだと言う事を言っておられますようにです。これは私何でも同じだと思うです。信心御道の信心をさせて頂くなら、やはり丁寧をモットーにしなければいけません。おじぎ一つでも丁寧に、いやと言うてその年中頭を下げるようなね、感じであってその挨拶する人があります。それはまあ友達同士まあ、くそ丁寧にあっちゃいけませんけどですね。心安い人がいちいち畳に手をついてから、はあっち言うてから、いうむこうなりにですけれどもですね。
 私共は結局はしにでも丁寧が溢れておるという、おかげを頂きたい。先日も話があったんですけれども、どうも合楽はその合楽の私を始め、ここの信者さん方は丁寧ではない。けれども、大変一つ丁寧にならせて頂く。まあその一番良い見本と言うたら、竹内先生辺りがそうじゃないだろうか。もう本当になんと言うでしょうかね。もうすべて言うなら控えめですね。礼儀一つのすべてにも。それがなら若い者であろうがね、年寄りであろうが、もう形を崩されませんもんね。
 もう見事ですね。見とって感じ感じというのが本当に有難いですね。これは形の上だけではなくなら、心の中にもそういうものがいつもあるから、そうしなければおられなくなってくるのでございましょうけどもです。私はもう本当にあのもう本当に、あのなんと申しましょうか。もうこれは私の性分じゃけん、と言うて片付けたら、もうどうしようもならんです。これは私の性分だと思うほどしの、粗雑な人なら粗雑な人ほどに、私は自分にはそういう丁寧に欠けておるんだと悟らしてもろうてですね。
 一つお道具一つ、ま女の方で言うならば、茶碗一つ扱わして頂くでも、マッチ1本使わして頂くでもね、私は丁寧を基本にそれが信心だと言うて、間違いないのですからね。一枚の紙を使わして頂くでも、おし頂いて使わせてもらうというような、私は信心がですね欠けておる。例えばなら御祈念でもそうです。もう実に丁寧を極めた拝み方をする人があります。かといってわざわざ遠方から参って来とってから、もうポンポンって叩いとってから、先生お願いして拍子木だけのような感じの、
 一口ごたうとが、なんがごたうですけれども、これはあまりの事だとこう思う。折角時間をかけてお参りして来てるのであるから、本当に心の思いの限り深い自分の思いのたけをです。神様に丁寧に丁寧に私は拝ませてもらう、祈念させてもらうと言う事が大事だと思う。どうでしょうか皆さん一つ一心発起して、せめてここ何日間ですからですね、朝の御祈念なら朝の御祈念を丁寧に頂かれる稽古をなさったらどうでしょう。丁寧と言うなら、まずなら五時ちょうど十分前に出て来るんですよね。
 そして御祈念の時間を待つんですよ。そして始めから最後までね、本当に丁寧を極めた御祈念。御祈念を頂かせてもらうね。そしてはぁ丁寧を尽くす事が、丁寧を真似させてもらう事が、この様に有難いものだと言う事になってきたら、それはまた後々続けられて、なお有難いじゃないですか。ただ参りさえすりゃ朝どき参りさえすりゃ、朝、朝御祈念に参ったというのではなくてです。そこに丁寧を極めていかなければです。これをそれをひっくり返して言うなら、神様とてもやはり丁寧なおかげは下さらん。
 そうでしょうがね。合わせ鏡と同じ事ね。それこそ拍手一つでも思いを込めてね。私は昨日おきいべっく、神参りですけれどもですね、まあ有難い事なんですね。それがここで信心の稽古をしておる人、またたまたま参ってくる人、また新しく参ってくる人と言う様な様々な、この人達があると言う証拠でもあるから、有難い事なんですけれども、昨日夕べ私は表へ送り出しましてから入ってきたら、あのあそこにタバコの吸殻が落ちている。こりゃもう一回二回じゃない。
 誰かがタバコのんであそこにふっと消して、あんなにして捨てておるらしいんでですね。こういう丁寧を欠いた事ばしてからね。もう言わば私はあの入り口には、その入り口その入り口玄関口に入ったら、そこの家の家風がわかると言われるくらいですね。履物がきれいに丁寧に揃えてあるね。とにかく丁寧のいわば稽古をさせて頂いておるようなものでございますからですね。私共その辺のところもう細々しゅう、言うなら細々しゅうところまでです。一つ丁寧を尽くさせて頂きたいね。
 自動車これは道具一つでも丁寧に使う使わないで、その生命が違うね。だいてという程のこの容姿を、私は十分におかげ頂かしてもらうという、一つこの体を丁寧に使う扱わないかんね。大酒大食は絶食の元になる。と仰るのでございますからね、私は食べ物ひとつ上にでもです。丁寧な頂き方をさせてもらわなければ、折角の50年もてる命がです。30年でおしまいになるような事になっちゃ、神様に対して相済まんね。これは物腰物言いね、その態度だけではありませんね。
 もうすべての事にわたって、私は丁寧を一つ尽くさせて頂こうと。そして「はぁ自分は丁寧を欠いておる」と。「今までこれが自分の性分じゃけんと思っておった人も、思うほどしの人なら思うほどしの人ほどです。そこに心おかないけません。でなかったら、おかげが低位。おかげがですね。神様がやっぱりそのザーっとしたおかげ下さるだけなんですね。だから本当にめぐりにならそって信心は、私は丁寧な信心だと思う。もう私はもうこれは自分でも病的だと思うくらいにですね。
 もうあの椛目時代のご信者さんはご承知のように、こうしてもう御理解を伝えさせてもらう時に、障子が向こうにちょこっと開いとっても、話が出来ないです。誰かが丁寧をかいとるから、もうそれが私は心に引っかかる訳なんですね。もう私の目にあるこの小道具。そういう物がです。もうこれが見えとくと私はお話ができない。お取次ぎをようせんね。これはま性格といえばそれまでですけれども、それが信心でなされていくという私の家業ね。そこに私は神様はまた丁寧なおかげを下さるね。
 神も喜び氏子も喜びとこう仰るね。金光大神も喜びじゃと言う様な、御理解の中にその言葉があります。その中に特に私は今日の丁寧と言う事についてから、最後に頂きました事はですね。氏子の喜びじゃと言う事を頂きました。神も喜び金光大神も喜び、氏子をも喜びじゃとこう、いう三つが続いておりますね。けれどもですね、その丁寧をつくすという事はですね、氏子の喜びじゃと仰る事はですね、確かに神様がね丁寧を尽くさせてもらえば丁寧なおかげを下さるからです。
 ようやく私どもが喜ばせてもらえるようなです。ま神様がこのようにまで行き届いて、おかげを下さるんだというおかげを受けられるから、氏子も喜びですね。氏子の喜びね。私達はそういうおかげが頂きたいのでしょう。も神様なんて行き届いた。おかげであろうかと。と思わせて頂くようなおかげを日々頂かせてもらい、それを感じさせてもろうての信心生活ね。とりわけ私は今日は14日でございますから、14、15、16、17、18、5日間ございますからね。
 いわゆる報徳祭をお《 》さんが、みんな私を中心にいうなら奉仕する訳でございますからね。その報徳祭に向かってです。4日間、5日間でも良いから、本当に丁寧の限りを尽くさせて頂いて、お祭りの御ひれいにあいたいと、こう思うね。私共の周囲には今も申しますように、その丁寧の見本というのが、まありますね。あれは妙なもんですね。くそ丁寧というのがありますもんね。
 こうやって頭を下げてから、思いござるけんで頭を下げてから、丁寧ごもんに「あぁ、こんにちは」と言ったかと思うってから、こう頭を上げるとまあだ、向こうは下げてござる。これは困りますね。くそがつくような丁寧じゃいけません。もうどこまでもです。いわゆる、実意丁寧でなからなければいけないと言う事でございます。この実意と言う事になると、大変な難しいことになるのですよね。
 だから今日はわざわざ、丁寧と言う事だけを言ったんだと、私は思うのですけれどね。その丁寧の限りを、私共の欠けておる所を、一つ気付かせて頂いてね。人に対しても物に対しましてもね。ましてやこの報徳祭に向わせて頂く心構えをですね。本当に丁寧に、神様へ打ち向かう心を向けていきたいと思うのでございます。どうぞよろしくお願いいたします。